川村泰雄著

 
■全人的歯科治療の原点

◇口の中の健康
患者さんを一人の人間として見る
歯科医療に限らず、今までの医療は臓器の修復医療が中心でした。いわゆる「疾患」が診療の対象になっていました。

医師はその目的のため客観的な視点で詳しく検査を行い、詳細な分析と的確な判断を要求されました。その上に卓越した技術的な手腕が強くもとめられました。 しかしその疾患(病気)を持っている患者そのものの人格には、あまり考慮がはらわれてはいなかったといえるでしょう。

肝臓が悪い、心臓が悪い、歯が悪いというようにその臓器にだけ目が向けられて、その肝臓を持っている人、心臓を持っている人、その歯を持っている人にはあまり配慮が払われませんでした。むしろ医師は個人的な感情を出さず、患者の訴える窮状に巻き込まれないように、常に冷静で客観的な姿勢が要求されてきました。
患者がその病気をどのように知覚しているか、どう体験しているか、そして病気をどのように感じ評価しているか、という態度にはあまり焦点を当てていなかったのです。 歯科医が患者をただ「病気を持っている普遍的な教科書にのっている"ソレ"」として観察し、対象化した「モノ」として考えたならば、どんなすばらしい歯科医術を行ってもそこには歯科医中心の世界しかなく、自分勝手に患者を利用しているといわれても仕方ありません。患者は歯科医術の機能的対象にしか過ぎないのです。

歯科医と患者の関係は主従の関係となって患者の自由は奪われ、双方に残されるのは道具的機能関係だけになります。そこで行われる歯科医術も単なる「モノ」となり、いかに高度な歯科医術が行われても本当に患者の「私」の中で生かされていくものではないといえます。
患者の中に独立した個としての人間を見いだし、病気を持っている「人間」としてみなければいけないと思います。患者を生物的存在としてだけではなく、精神的、社会的な存在として考察する必要があるのです。そうすれば「その病気」は、個々に異なる「その人の病気」となるはずです。患者の側からは主観的な「私の病気」になるとともに自我がそれにからんでくるでしょう。

では患者と歯科医が心を通わせるそのような歯科医療を行うのにはどうすればよいのでしょうか。


 


◇クオリティ・オブ・ライフの歯科的な意味
最近「クオリティ・オブ・ライフ」ということがよく言われるようになりました。もともとこの言葉は、1960年代から80年の初めにかけて、経済学、社会学、社会福祉学の分野で使われていたのです。高度成長が終わって中身が問われる時代になったとき、人の生活面の目標も量から質へと転換し、その中でクオリティ・オブ・ライフとは何かが問われたのです。

他方、医療界ではリハビリテーションの領域でこの言葉がとり入れられました。それまでのリハビリテーションは障害者の身体機能の向上を目指していましたが、新しく独立生活運動(Independent Living) の考えが導入され、障害者の生き方を質的に向上させるためのクオリテイ・オブ・ライフが論議されるようになったのです。もうひとつの使われ方としては、生命倫理の分野で末期患者を看病するとき、その残された生命をどう充実させるかという中でこの言葉が強調されてきました。

つまりクオリティ・オブ・ライフを視野に入れた診療とは、患者の生命を尊ぶということをベースに、彼の人生とは何かという意味まで踏み込んで考えていくことなのです。患者が身体的にも心理的にもまた生命倫理的にも、充足された上に生き甲斐を持って日々を送れるようにすること。具体的には、よく食べられよく眠れ、排便も排尿も快適で、疼痛のため苦しむこともなく、心理的に安定し、社会生活・家庭生活を幸福に営め、生きがいを持って日々を送れることとされています。

したがってクオリティ・オブ・ライフのモデルは、健康生活を送るための健康モデルからリハビリテーション、一般治療モデル、さらに末期医療の面と幅広く論議の対象となっています。これは一口でいえば患者サイドに立った考え方です。

そのような視点から歯科医療を見ますと、歯や口を中心に患者の健康観のレベルをどのように向上させていくかという原点から出発しなければならないと思います。そして歯科的な健康観が、どのように患者のクオリティ・オブ・ライフに関わるかが問題になってくるわけです。

 


◇健康観のレベルを上げる
それぞれ自分の身体については自分なりの意見を持っています。意識するか無意識であるかは別にして、自分の身体像があるはずです。身体像とは過去の経験の中で得た自分の身体についての概念です。

たとえば、私は今68歳(1998年)です。自分の今までの生活の中でとりたてて68歳になったという実感はありません。気分にしてみれば30歳代の自分と今の自分を比較して老いたという実感はありませんし、いまだに「ルンルン」気分でおります。少し外観的に白髪が目立ってきても、普通の人より若く見えると思っています。

先日、旧制中学校の同窓会が中華料理屋であって十年ぶりに出席しました。今宮中学校同窓会御席という名札を目印に部屋に入りましたが、中には頭の毛が薄い人、白髪の人、腰が曲がりかけた人、どこから見ても老人ばかり。
「アレッ部屋を間違えたかなあ」と思いもう一度名札を確かめてみました。しかし間違ってはいません。あらためてそれぞれの顔をじっくり見ると「しわ」や「しみ」の多い顔の中から、あの中学校時代の幼い顔が浮かんできてホッとしたわけです。

家に帰って家内に、 「みんな年をとっておじいさんになっとるわ。ボクはその点、若いもんや」 と自分の若さを誇らしげに言ったら、 「何を言うてはるの。眼鏡をかけて鏡を見てごらん。みんなと同じような顔ですよ」 と笑われ、酒の酔いのなか、老眼鏡をかけて洗面所で自分の顔をあらためて観察しました。 なるほど鏡の中に映し出されたもの、そこにはあの中華料理屋で見た同級生と同じように年老いた顔がまぎれもなくありました。頭が白くなり、「しわ」のよった「しみ」だらけの65歳の顔が…。
実は毎朝鏡の前にいる時は、眼鏡をかけずに髭を剃り顔を洗っているものですから、あまりまじまじと自分の顔を見てなかったのです。もっと若かった頃の顔のイメージをダブらせながら見ていたのかもしれません。

つまり私が鏡の中の顔を老眼鏡ではっきりと見たとき、私の身体のイメージはしっかりと客観視され、今まで思っていた主観的な心理的な自分の像が修正されたのです。そしてもう一度あらためて再構成され、年相応の自分の像ができました。
「私の身体」「私の歯」についての主観的な身体像はそれぞれの人が持っています。それは嬉しい、悲しい、憂鬱なときといった個人の情緒の変化に連れても変わっていきます。嬉しいときには自分の身体も溌剌と大きく感じますし、憂鬱なときには自分の身体が何か小さく弱々しく自信を失っていきます。
これは健康観にも通じることです。健康観も毎日毎日の満足感充足感にかかわっています。そして個々の主観的な健康観は必ずしも「客観的な健康」や「客観的な身体像」とは一致しないわけです。むしろその差は大きい場合が多いようです。

しかし個人の恣意的な健康観にとどまらず、客観的な健康のデータを加えることで、より高いレベルの健康観を持つことができます。つまり医師や歯科医の専門的なサービスを受け科学的な検査による判断をプラスして、今まで持っていた健康観が正しく修正され再構成されていくわけです。
自分の健康を客観的な判断にゆだねた上で、健康な体をつくり常にそれを維持していこうという行動が自分の意志によって起こるのが望ましいことです。もちろん健康についての情報がたくさんあることも大切なことです。そこから主観性だけでなく客観性も入れた自分の健康を正しく判断できるようになるからです。
「歯と口の健康」の場合、歯科の健康についての情報がまだ少なく、しかも生命にかかわらないということから、人々の関心が薄いのは残念なことです。

 


デンタルIQの低い日本人
最近、我が国の歯科関係者の間で「デンタルIQ」という言葉がよく使われるようになりました。IQとはご承知のように知能指数のことです。では「デンタルIQ」歯科知能指数とは何を指す言葉でしょうか。

アメリカではIQが110〜140の天才、秀才が一億人中2千万人、平均よりIQが高い100〜110の人は3千万人いるといわれています。約半数がIQが優れているわけです。
日本の場合、天才クラスがアメリカより高いとはいえないかもしれませんが、おそらく100〜110の優秀とランクされる人は多いのではないでしょうか。日本のように中学生の80パーセント以上が高校へ行き、その70パーセントが大学に進学するという国は世界でも珍しいそうですが、それだけにIQの数値も高いはずです。
日本人の質の良さ、知的水準の高さはよく言われています。しかしデンタルIQになると先進国の中でも日本は最低である、という嘆きの声が聞こえてきます。

それではデンタルIQとは何でしょうか。
デンタルIQとは歯や歯科についての知識量の大小ではありません。よく誤解されるのは、歯や歯科についての知識があることと思われていることです。たとえば歯が何本あるとか、虫歯がどのようにできるとか歯科の治療の方法を知っているとか、歯と歯肉の解剖学的知識があるといった類のことではありません。
もしそうなら、デンタルIQの高い人は歯科医であり、歯科技工士であり、歯科衛生士ということになりますが、決してそうではありません。歯科医でもデンタルIQが高い人は少ないのです。

私が指導を受けた、アメリカのL.D.パンキー先生は私にこう話してくれました。
「世の中にはいわゆるIQの高い人は大勢います。しかしその人達が必ずしも歯の健康について関心が高いわけではありません。社会の指導的立場にいる人、会社のエグゼクティブ達でもデンタルIQが低く歯の健康が良くないことが多いようです。新聞やテレビに登場する政治家、学者、会社経営者はほとんど歯が悪く、テレビのクローズアップでその人達の笑顔が映し出されると、思わず顔を背けたくなります。

ではデンタルIQが低い人はどのような考え方をしているのでしょうか。このことが大変重要なことなのです。歯というものは老化によって失うものだと思っている人、歯は日常的に痛くなく少々不自由でも何とか咬めればよいと思っている人、歯が真っ黒でも平気でいる人、歯肉が腫れて膿がでたり出血してもあまり異常であると思わない人など。こういう人たちが巷にあふれています。」

デンタルIQ、つまり歯に対する価値観は、その人のIQとは別物で全く関係がありません。パンキー先生は「デンタルIQを上げるには、まず歯の健康の大切さをわかってもらうことです。」と言っています。
「歯の正しい健康観を持ってもらうには、その人の人間性にふれて、感情、情緒に訴えるところからはいるべきで、単に知識だけ与えてもデンタルIQは高くなりません。」 デンタルIQとはパンキー先生らしい実に皮肉のきいた造語だと私は思いました。 先進国の中でずば抜けて歯の悪い日本人。それは人々のデンタルIQの低いことが原因です。

 


デンタルIQを上げるために
デンタルIQを上げるためには、多様化している健康への価値観の中で、まず「歯科的健康」に高い優先順位を持たせることです。その上で歯科的健康のありがたさをよく知り、感謝の気持ちを持っている人。こういう人をデンタルIQが高い人というのです。

それでは日本の人たちのデンタルIQのレベルを引き上げるにはどうしたらよいのでしょうか。私はこう考えます。歯科医が見た医学的科学的な裏付け(客観性)と患者の持つ恣意的で情熱的な身体像(主観性)、その両者のからみの中で当人の知的レベルに合わせながら歯のライフスタイルを形成していく必要があるのではないかと。

日本では、一般的な健康観がこれほど成熟し高いレベルにあるのに、なぜ「歯の健康観」だけが取り残されて古いコンセプトがそのまま通じているのか、非常に不思議な感がします。
ジョギングする人、ジャズダンスに興じる人たち、健康のためとゴルフをする人たち、その人達の口の中を一度のぞいてみて下さい。おそらく口の中は「健康」「衛生的」という言葉はひとかけらも見つけることはできないでしょう。日本人の口の中の汚さにはほとんど言葉を失うほどです。

「歯の健康観」だけが知的レベルに関係なく取り残されているのは何故か。すばらしい歯の健康がこれほどまでにないがしろにされているのは何故か。この不思議さを皆さんはどう思われますか。

さっぱりとした清潔なローズ・ピンク色の歯肉、真っ白な歯並び、何でも自分の歯でバリバリと食事ができる楽しみ、快適さ、美しい口元、ブライトな笑顔。これこそ「口の健康だ」というシンボルイメージを作り上げる必要を感じています。

また、私たちの新しい「歯の文化」を健康イメージの中で育てていかなければいけません。 それは入れ墨文化やお歯黒文化ではなく、まして入れ歯文化や歯痛文化ではないはずです。輝くばかりの健康イメージに光る歯の文化です。逞しさ、強さ、優しさ、若さ、美しさ、華やかさ、そしてあこがれ。このような価値の中から歯の文化を育てることができれば、自ずと歯の健康がクオリティ・オブ・ライフの重要な位置を占めてくるようになると思います。
このためにも、歯科医療が単にハードとしての価値にとどまらず、「口の健康観」のグレードを上げるというソフト面の展開を考えていくことが大切でしょう。

 


歯の健康は人生の幸せ
歯科的健康観を高めてその健康を自分のものとしたいという行動は、よほど強い動機がないと生まれるものではないと思います。

最近では、「8020」と言って80歳になっても自分の歯を20本残して老後のクオリティ・オブ・ライフを高めようとキャンペーンが行われています。しかし、口の健康の大切さに30歳代に気がついたとしても、さてそれを行動に結びつけようとするとなかなかできません。何か具体的な健康像をつくり目標を示して人を駆り立てるものが、一つ必要だと思っているのです。情熱的な要因と人を行動に駆り立てる衝動があれば、それは実現するはずです。

歯科医の「おどかし」が、その誘因やきっかけとなることはありません。歯科的な健康が失われると命にかかわる緊急的な問題を抱えることになるとか、老人になれば歯が全部抜けて総入れ歯になりますよ、というマイナス指向の「おどかし」が成功することはまず考えられないでしょう。

輝くばかりの人生の幸せをつかむというプラス指向が歯の健康を求める目標なのです。人間は自己の望む目標に向かって懸命に努力することもありますし、何かの誘因によって行動が鼓舞されることもあるでしょう。

人間が生きていくにあたって様々な価値がありますが、どれを自分が選ぶかはその人の自由です。自分が何をするかを決定する自由もあります。どんなことでも人の行動の反応は、その瞬間瞬間に何を経験しているかによって決まります。それが絶対価値と言われる健康、たとえそれが生命に関わることであっても、そのために自分が行動を起こすにはそれこそ強力な動機が必要だと思います。

それぞれ人には独自性がありますから人間の行動パターンも、様々の様態があります。人生の意味合いも人によって千差万別です。
歯の健康に対しても、各人各様の関わり方があるという視点から見ていくことが大切です。個人個人の特有な生きかたのなかで、その人を取りまく多くの価値から自分はこれを選ぶのだという選択基準が決まります。そのことを選んだ結果どのようになるかということを明確にした上で、各自が持っている価値の優先順位に基づいて取捨選択が行われ、初めて行動に移ることになるのだと思います。

「歯の健康」がいかに人の人生に幸せをもたらすかということを歯科医が説いても、なかなか患者の行動には結びつかないでしょう。輝くような人生を「歯の健康」によって築き上げたいと本人自らが思い、自身のクオリティ・オブ・ライフの設計に組み込んだとき、初めて「健康な歯」の目標に向かって人は行動することになります。
歯科医はそのお手伝いをするだけです。

 


「歯の健康」の目標へ行動する条件
私は、患者さんが最初に見えたとき治療椅子ではなく、まず普通の椅子にかけていただきます。リラックスした雰囲気の中でお互いの視線を合わせながら、ゆっくりと時間をかけて話しをしていきます。精神分析医のカウンセリングというより、むしろ親しい友人を家に迎えるような雰囲気です。

患者さんも、やがて心を開いて話し始めます。
「あまり歯が悪いので人前で話をするとき恥ずかしい思いをしています。」
「歯並びが悪くなったのでいつも口元に手をやって話をします。」
「最近、口臭が気になります。」
このような会話から、日常の生活感情の中でどのようなことが患者の心をブロックしているかがわかります。様々な訴えの方がありますが、歯科医にとって治療のソフト面で大きなヒントになります。

私が提唱する歯科的健康や予防的歯科医療は、単に歯を失うから、歯周病になると大変だからという低次の安全欲求水準(マズローの欲求水準段階説)だけを繰り返していても目的は達成できません。人が「歯の健康」への行動に踏み切る契機はもっと高い次元の欲求を刺激されたときです。

日常生活の中で人とのつきあいや人との交わりをスムーズにし、みんなから嫌われない好ましい存在になりたいというのが「マズローの欲求水準段階説」での社会所属水準です。もっと高い次元の尊重水準は「自分に対する高い評価承認、若々しい自分、若返り」に対する欲求です。そして「人間が持っている特性を最高度に発揮したい」という自己実現への欲求に進むわけです。この三段階の欲求を刺激しない限り、「歯の健康」の価値を理解させ行動を起こさせる契機にならないように思えます。
そしてその後もこのモチベーション(刺激)を持続していくのが望ましいのです。

「あなたの歯のために私たちはできるだけのことをしたいのです。」
「私はあなたを大切に思っています。」

歯科医が援助者としての姿勢を示し、暖かさ、思いやりを心から表していくことで患者の「歯科的健康観」はさらに高められていくはずです

 


口は生命の根幹  


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